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  • 執筆者の写真信徳寺

カレンダーのことば 2021年11月

仏法聴聞に卒業はない この身ある限り


 仏法聴聞というのは、ほとけさまのみ教えを聞かせていただくことです。この「聴聞」ということばの「聴」も「聞」もともに「きく」ですが、「聴」は注意深く、進んで耳を傾ける様で、「聞」は自然に耳に入ってくる様だそうです。これに卒業はないですというわけです。それは何故でしょうか。

 それは死ぬまで私たちが煩悩具足の身であるからでしょう。煩悩とは私の身を煩わせ、私の心を悩ませるものです。代表的な煩悩は「三毒」といいます。必要以上に欲求を満たそうとするむさぼりを表す「貪欲(とんよく)」や思い通りにならないことに腹を立てるいかりを表す「瞋恚(しんに)」、そしてありのままにものを見ることができないおろかさを表す「愚痴(ぐち)」は、どこまでいっても自分の都合でしか考えられない私であることが根本の原因です。このことはわかっていてもやめることができません。ある意味「自分」を形作るために自分の領域の中でしかものを考えられないのは仕方がないことだからです。そんな自分中心のものの見方から、離れることができない私であることを知らされ、そんな私を受け止めてくださる存在がいることを知らされるのがお聴聞の場です。

 以前法話の勉強をするために京都の伝道院というところに行っていました。そこは2人1組の部屋で100日間合宿をします。私と同室の帆足さんがお話になられていたことが印象に残っています。それは帆足さんのおじいさんの米寿のお祝いの席での出来事です。当時少し体を悪くされていたおじいさんは、宴席の途中で短い時間参加され、そして少しご挨拶の時間を設ける中で、こんなことをおっしゃったそうです。

「今日はこのような席を用意してくださって誠にありがとうございます。おかげさまで88 歳になることができました。今日を迎えられて本当に嬉しいです。それと同時に88年の間、いのちをむさぼってきたということ、本当に身震いのする思いです。こんな私を目当てとしてくださる阿弥陀様がいてくださること、本当かたじけない思いです。」

とご挨拶されたそうです。長く生きることができたのは周りの方々に支えられてのことであり、それと同時に命を長らえさせるために無数の命を奪って生きてきた自分に気づき、そのとんでもなさを感じる。そしてそうせざるを得ないいのちの私をお救いくださる阿弥陀様の御慈悲を頼もしく、かたじけないといただかれているお話でした。

 どこまでも自分の都合でしか生きることのできない私を心配し、そんなあなただからこそと立ち上がってくださった方が阿弥陀如来です。そのお心を鏡としながら、煩悩具足である私に気づかされ、その姿にとんでもなさや恥ずかしさを覚えつつ、この私だからこそ必ず救うと立ち上がってくださったお方がいるということをお互いに確認させていただき続けていく。お聴聞とはそういう場だと改めて思う今月のカレンダーのことばでした。



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