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  • 執筆者の写真信徳寺

カレンダーのことば 2022年3月

人生を空しく終わらせないと アミダさまの願い


 阿弥陀様は生きとし生けるものを皆もらさず救うと願われた仏様です。全てのいのちを阿弥陀様の世界である浄土に生まれさせ、おさとりの身である仏に仕上げていくことでお救いくださります。南無阿弥陀仏のお念仏は、「あなたを救う阿弥陀がいますから、まかせてくださいね」と阿弥陀様が私を呼び続けてくださるメッセージと受け止めていきます。そのメッセージを「人生を空しく終わらせない」ものと伺っていきます。

 私たちはお互いに必ず終えていかねばならないいのちを生きています。いのち終える際には、全てを手放していかねばならず、手にした財も、仲間も、地位や名誉も、全て持っていくことはできません。こう考えると「空しい」、すなわち空っぽな無意味な虚無感で「死」を受け止めてしまいます。「死んだらおしまい」という受け止めをしてしまうわけです。ここで、常に同じものはない「無常」が全てだと気づき、常に同じように保とうとする私の執着心を捨てされれば、そのような感覚は持たずにすむのですが、そうはいかない「情」を私たちは持っています。大切な方とのお別れを単なる事実として「はい、そうですか」と受け止めるわけにはいかないのです。

 では空っぽな無意味な虚無感に向き合うにはどうすればよいのでしょうか。ここに必要なのは「意味」に気づかされることです。自分でつかんだ意味ではなく、気づかされる意味ならば無意味でなく充足感を覚えることができるのではないでしょうか。阿弥陀様は「死」を「浄土に生まれ、仏となる」としてくださいます。死んでおしまいというような受け止めでなく、お浄土に生まれ仏となっていく中に、このいのちを空しく終わらせないと願ってくださる阿弥陀様の存在を伺うのです。

 以前当山信徳寺の報恩講でご講師の赤井智顕先生が、このようなエピソードをお話しくださいました。ご自身が毎月担当されているカルチャーセンターでの講義で、講義終わりに受講者より声をかけられたそうです。それは今までのお礼を申したいとのことで、どういう理由かお尋ねすると医師に余命宣告されていて来月の講義にはもう来られないだろうからと言うのです。そして続けて、浄土真宗で良かったと言われたそうです。病気で何もできなくなった私が、阿弥陀様の願いのはたらきに、ただまかせる中に救われゆくこと、本当に良かったとおっしゃられたそうです。そして来月ここに私の姿がなければ、お浄土で仏となったと思ってくださいねと言ってお別れをしたそうです。そしてその次の講義、そのお方は来られなかったそうです。すがたかたちは見えないけれど、仏となってここにご一緒とお念仏申させていただいたとお話しくださいました。

 私たちがつかむ「死」というものは「死んだらおしまい」という世界かもしれません。けれど阿弥陀様によって「死」は「浄土に生まれ、仏となる」ものへとかわります。空しい無意味な受け止めでなく、意味をたまわる受け止めとなります。あなたの人生を空しく終わらせない、どうぞ阿弥陀にまかせてくださいと南無阿弥陀仏に伺わせていただく今月のカレンダーのことばでした。




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