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  • 執筆者の写真信徳寺

カレンダーのことば 2022年4月

人間に生まれてきた 仏法と遇えるところに


 浄土真宗では「遇」という漢字をよく用います。この「遇う(あう)」には「ようやく」というニュアンスがあるそうです。仏教ではこのいのちを生まれ変わり死に変わりを続けていく輪廻という生命観を持っています。この輪のようにぐるぐると変わり続けてきたことを迷いとして受け止め、ここから抜け出すことを解脱と言います。それが仏になるということです。ですから「遇」には今生で「ようやく」この輪廻の輪から解脱することのできる仏法に出遇えたことを意味しているのです。さて、4月8日はお釈迦様の誕生日にあたります。今回のカレンダーのことばは、次のお釈迦様のエピソードを元にしたことばでありましょう。

 ある時、お釈迦様はガンジス川のほとりを歩いていたときにお弟子へと質問をされました。この河原にある砂と今ここに手にとった一握りの砂とどちらの方が多いのかというものでした。当然、河原にある砂の方が多く、一握りの砂はその一部でしかありませんので、河原の砂の方が多いとお弟子は答えます。それに対し、この河原の砂の数を生きとし生けるもののいのちの数とたとえ、一握りの砂を人として生まれたもののいのちの数とたとえられました。さまざまないのちが存在する中に人として生まれゆくご縁をたまわることは本当に稀なことであると示されたのです。そして続けて質問されます。この一握りの砂と指の爪の上に乗せてみた砂とどちらが多いのかというものです。これも当然に爪には数粒しか乗りませんので、一握りの砂の方が多くなります。そのように答えますと、人として生まれることも稀なのだが、仏法を聞き、そのありがたさに気づくことが指の爪の砂ほどの遇い難いご縁だとお話しされたそうです。

 人として今ここに生をうけ、またいのちを長らえさせられていることは本当に稀なことです。無数の縁があって生まれることができ、また無数のいのちをいただくことで生命活動を維持できています。そう受け止めていけるのは仏法(仏さまの教え)のおかげになります。例えばこの縁というものは、全てのものが関わりあう関係性、すなわち縁起(えんぎ)という仏法の受け止めによるものです。そしてここで重要なのは、私が気づいたからそこに全てのものが関わりあう関係性が登場したのではありません。私が気づく前からずっとあったということです。これらは仏法の智慧、普遍的な真実によるものです。

 私が無数の関係性の中に一部として存在し、また欠けることもできない存在としてあるという縁起としての事実は、私が気づく前からずっとあるのです。それに気づかなかったのは自分の都合を中心にしか見ることのできなかった私自身のものの見方でした。その気づきの中に、自分を支える無数のいのちの存在や、どこまで行っても自己中心的なものの見方しかできない私や、その私を決して見捨てないとお心をかけてくださる仏さまの存在に出遇うのです。このことが「仏法と遇う」ということなのでしょう。このように普遍的な真実に気づかされ、価値観の変わっていく世界が仏法にあるのです。



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