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  • 執筆者の写真信徳寺

カレンダーのことば 2022年6月

食材として 生まれた命はありません


 食材とは料理の材料のことです。生まれながらにして食材となるいのちはありません。あるとすれば人間がそう仕向けているということです。食肉用の家畜、養殖された魚など、本来のいのちを全うすることなく、人間の都合でそのいのちを利用しているに過ぎません。そして悲しいことにそのことを私たちは往々にして忘れがちです。

 以前のことですが、本願寺の研修道場でこのような質問をされたことがあります。研修道場で食事をいただく際には全員無言でいただきます。食前のことばの中で「おいしく」いただくとありますが、皆とお話ししながら食べた方が「おいしく」いただけるのではないですか?というものでした。

 その時に私が答えさせていただいたのは、食事としてここに仕上がるまでの物語を味わってみませんかということでした。食材になる前のいのちをどう生きたのか、そしてそこに携わる方々や運搬された方々、調理された方々、さまざまな繋がりの中にそれぞれの物語があります。その一つ一つに精一杯思いを巡らすことこそ、最大限そのいのちを「おいしく」いただくことになると思うからです。そう考えてみるとなかなかお話ししながら食べるというわけにもいかない気がするのです。

 また他の先生は、仏教の輪廻の立場から、目の前の食事が過去世においてご縁があったかもしれないよと答えました。袖振り合うも多生の縁ということばがありますが、それはすれ違うくらいの関係であっても輪廻という生まれ変わり死に変わりの中で何かしらの関係性があったからだということです。もしかするとここに仕上がった食事は私にとって身近な存在であったかもしれないと受け止める中に食事との大切な向き合い方を教えてくださいました。

 日々の食事はともすれば作業のようになってしまう場面があるかもしれません。しかし私たちは他者のいのちをいただくことでしか生きることのできない存在であるということ、ここに仕上がるまでに無数の物語があること、そして目の前のいのちと全く無関係ではないと受け止めていくこと、さまざまないのちの受け止め方が食事の中でなされるわけです。このことを心の片隅にでも置いておきたいものです。

 どこまで行っても自分中心の生き方しかできない、そんな悲しい生き方しかできないいのちを生きているのが私です。そんな私を目当てとしてくださる阿弥陀如来の御慈悲をありがたく受け止めさせていただく今月のカレンダーのことばでした。




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