信徳寺
カレンダーのことば 9月
ご門徒の皆様にお配りしている直枉会カレンダーの
毎月のことばの解説や味わいをお参りの際に配布しています。
今月は「あの人もお浄土へお帰りになりました」です。
浄土真宗は、阿弥陀如来という仏様を大切にします。阿弥陀如来はすべてのいのちを阿弥陀如来の世界である浄土に生まれさせ、苦しみ悩みから解き放たれた仏という存在に仕上げるお方です。
さて、そこで疑問が湧いてきます。私はお浄土に行ったことがありません。暮らしたこともありません。それなのにここには帰るという表現がされています。では、帰るって一体どういうことなのでしょうか。当たり前のように生活をしているところに戻ることが帰るということなのでしょうか、それとも、この帰るということには違う受け止めがあるのでしょうか。
以前、「死の体験旅行」という体験型の講座に参加したことがあります。これは、自らがいのちを終えていく過程の中で様々に手放さざるを得ない自分にとっての大切なものを追体験し確認していくものでした。具体的には5枚ずつ4種類のカードを持ち、そのそれぞれに自分にとっての大切な人、行動、物、景色をカードに書き、節目ごとに手放していきその過程の中で自分の人生を見つめ直していこうということでした。私は事前に自分にとっての大切なものと聞いていたので、おそらく家族とか最後まで残っていくのだろうと想像していたのですが、私が最後に残したものは結局景色でした。どの景色かというと母方の実家近くの海岸の風景で、ここが幼い時に祖父母に全くの掛け値なく受け止めていただいた自分を思い出させてくれた景色でした。このことを思うと、自分のことを大切に思っている存在の元へと行くことが「帰る」の中にあるのではないかと思うのです。
例えば、実家に帰るということの中に、親の元へと帰るのか、過ごした家へと帰るのかと言われれば、親の元へと帰る方がその思いは強いのではないでしょうか。このことは一例ですが、自分のことを大切に思ってくださり、掛け値なしに受け止めてくださる存在のもとへと行くことが帰ると感じるわけです。そうすると私たちの大切なお別れをした「あの人」も、大切な方の元へと行ったわけです。お浄土は全てのいのちを生まれさせてくださる場所です。私たちの大切な方がおられる場所です。そこに生まれること=帰ることと受け止めるわけです。
今年はオリンピックがありました。N H Kの2020応援ソングが米津玄師さんの『パプリカ』という曲でした。この曲は応援ソングなのに直接的な「頑張れ」という表現はなく、誰かのことを思うということで応援の気持ちを表したかったと米津さんはおっしゃっておられました。祖父母と過ごした田舎の光景が誰かを思うことの象徴として歌詞になっています。私のことを応援し、心配し、見守る存在のもとへと帰るのがまさしく「帰る」ということだと今月のカレンダーのことばに伺わせていただきます。
