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  • 執筆者の写真信徳寺

2020年10月「掲示版のことば」

更新日:2020年10月3日

いずこか仏が御座すのなら

私の元にもお慈悲をくれ

めぼしい物など何も持たず

侘びしく寂しく

しくじりばかりのこの私に(『無情のスキャット』人間椅子)

 こちらは人間椅子というバンドの『無情のスキャット』という曲の歌詞の一節です。様々な出来事を前に私たちはこの歌詞のような気持ちになってしまいます。誰も私のことをわかってくれないとか、一人ぼっち孤独を感じる時、普段神仏を信じていなくとも何かにすがるということがあるのかもしれません。

 阿弥陀如来は生きとし生けるもの、みなもらさず救う仏様です。全てのいのちを阿弥陀如来の世界、浄土に生まれさせ苦悩を超えた悟りの身と仕上げることで救う仏様です。そこには何か条件があるわけでなく、論功行賞のように何かを成し遂げたから救うというわけでもない、一方的かつ無条件の救いが阿弥陀如来の救いです。この私の生きざま、死にざまを問いません。それはなぜか。知っているからです。

 私がどこまでも自分中心のものの見方から離れることができないことや、日々他に怒り腹をたて、他と自分を比べ、他を羨み悔しく憎らしく思うことを一生涯続けていく、そんな生き方をやめたくてもやめられないことを知っていてくれています。そんな私を心配し、知り抜き、どうにかするべく立ちあがったのが阿弥陀如来でありました。あなたを心配し、あなたを知り抜き、あなたを必ず苦悩から解放してみせると絶えずはたらき続けている如来様です。「南無阿弥陀仏」は私へのはたらきです。呼びかけです。自分中心のものの見方しかできない一人ぼっちで「めぼしい物など何も持たず侘びしく寂しくしくじりばかりのこの私」に「まかせてくださいよ、必ず救うからね」とお慈悲のお心で南無阿弥陀仏と私いっぱいに響きわたってくださいます。

 そう知らされても変わらず他を見ていくのが私です。他と比べ、あの人より私がましだとか、あのひどい人が救われるのかとか、どこまでも自分中心のものの見方から離れることができない悲しい生き方しかできません。

 「火宅」ということばがあります。この私の自分中心の見方が盛んな状態をまるで火事の最中の燃えさかる家のようだという意味です。危機迫り安住できない状態が私の今です。そこへのお慈悲のお心をありがたく受け止めさせていただきます。どこかにおられるのでなく、もうすでにお慈悲のお心は届いています。その証拠が南無阿弥陀仏、生きざま、死にざま問わない阿弥陀如来がもうすでに今ここに、この私に御一緒です。


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