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  • 執筆者の写真信徳寺

2021年10月の掲示板

見えている あなたは 私の「あなた」


 「見る」ということを少し考えてみましょう。私が見ている「あなた」は、結局私の領域の中でしかありません。「あなた」そのものを見ているわけではなく、私の中にあるあなたの解釈されたすがたが「あなた」を形作っています。これが私たちのものの見方です。ということは私の「あなた」と「あなた」そのものに「ずれ」が大きいと軋轢を生むわけです。では、この「ずれ」をどうすれば良いのでしょうか。

 以前、「アンパンマン」を見ていて考えさせられることがありました。アンパンマンは基本的にいたずらをするバイキンマンを誰かの助けを呼ぶ声を聞いたアンパンマンが懲らしめるという構成になっています。ある回でシチューおばさんという非常に美味しく温かみのあるシチューを作ってくれるキャラクターが出てきました。ある時、寒さに震えているバイキンマンにも分け隔てなくシチューを振る舞っていたのですが、その際、バイキンマンはただ寂しく寒さに震えているだけでした。バイキンマンの助けを求める声無き声を聞いて、シチューおばさんは振る舞ったのです。

 この両者の姿を見ながら、私の理想は声無き声も受け止められるあり方ですが、これは実は仏様のあり方です。「覩見(とけん)」ということばがあります。「じっと見る」ということですが、何をじっと見たかというとこの私です。私が知らない心の奥底まで知り抜き、私の声無き声も全て聞いてくださっていることを表します。その仏様のあり方を理想に思うのですが、私にはできません。これができるならば、私の「あなた」と「あなた」そのものの「ずれ」を埋めることができるのですが私には絶対にできないのです。ということは「ずれ」を認めていくことが大切になります。

 相手のことをわかっているというのは仏様しかできません。親子であれ、夫婦であれ、兄弟であれ、友達同士であれ、わからないのが当然です。「ずれ」があるのが当然です。私と「あなた」の「ずれ」は、その「ずれ」を認め、お互いに声を聞き合い、声を出し合うことでこの「ずれ」が少しでもおさまるのかもしれません。仏教に触れる中に、私のあり方を知らされ、私の限界を知り、お互い様と生きていく、そういう考えもあるんだと心の端にでも留めていただけたらと思います。



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