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  • 執筆者の写真信徳寺

2021年11月の掲示板

待つものの いるところへと かえりゆく

「おかえりなさいって言えなかった事じゃない、いってらっしゃいって言わなかったことに後悔してる」という東日本大震災で子どもを亡くされたお父さんの言葉がBRAHMANというバンドのTOSHI-LOWさんの『鬼弁』という本で紹介されていました。この本はまるで鬼のような風貌のバンドマンであるTOSHI-LOWさんが、震災支援を続けていく中に出遇ったこの言葉に、今息子さんに対して何かできることをということでお弁当を作り始めたことから、それが1冊の本になったものです。親になり、待つものになったことで世界が変わり、その中でできたはずのことをしなかった「いってらっしゃい」への後悔ということを知らされ、何かせずにおれなくなったということでありましょう。「待つもの」が本来的に持つ「帰るもの」にかける思いということに改めて気付かされました。

「無常」ということを仏教ではいいます。全てが常に変化し続けていることが無常であり、そのことを私たちのいのちに向ければ「生死(しょうじ)」という言葉で表されます。それは生と死がまるで一枚の紙の裏表のように切っても切り離せないものであり、いつ何時どうなるかわからないいのちを生きていることを表しています。

その事実を前に「待つもの」にも「帰るもの」にもなる私は「いってらっしゃい」「いってきます」「おかえり」「ただいま」のやりとりの中に、紡がれる時間を感じられるのではないでしょうか。そしてそのことの当たり前ではない有難さを思います。日常の忙しさにかまけて、たびたび忘れてしまうのですが…。

私たちは人でも、ものでも、犬でも、猫でも、そしてお仏壇の仏様でも、「待つもの」がいてくださるところに帰ります。「待つもの」が私にかけた思いを改めて 知らされながら、その思いの中に生かされている有難さを感じます。「いってきます」や「ただいま」でその思いに応えていくこのやり取りが、無常を生きざるを得ない私たちにとって一つ一つかけがえのない時間を繋いでいることを感じることでした。



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