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  • 執筆者の写真信徳寺

2021年12月の掲示板

忘れたことも 忘れられないことも 私の歩んだ道


 一年が終わります。今年もいろいろなことがありました。一年を振り返っていく中で忘れてしまったこと、忘れられないこと、たくさん積み重ねてきた一年だと改めて感じます。私たちは一瞬一瞬経験していく中で、忘れてしまうことや忘れられないことを仕分けして整理をしていきます。自分の都合で経験を切り取っていくわけです。おそらくこれが生きていく上で人生を最適化していく脳が持つ生理的な知恵なのでしょう。ただそれが上手くいけばいいのですが、忘れられない記憶に苦しむこと、悩むこともあります。いっそ忘れてしまいたいのにそうもいかず、心に棘のように刺さった出来事、記憶を抱えている場合もあるかもしれません。また本当は大切なのに自分の都合を優先し、そこに気づかず忘れ去ってしまった出来事もあるかもしれません。その両方、すなわち経験した全てが実は今の私を形作っていることを一年の節目に改めて感じたく思うのです。

 仏教では縁起という考え方があります。「原因があって結果を生じる」ということを表すのですが、原因には直接的な原因(因)と間接的な原因(縁)があるといいます。例えば、この文章を仕上げるにあたって住職の私がパソコンで打ち込み印刷して掲示しています。これが「因」すなわち直接的な原因です。しかしそれだけでなく、パソコンを仕上げてくださった方、紙を作ってくださった方、私を住職としてくださった状況など直接的な原因を成立させるべくありとあらゆる要素がその背景に存在しています。それが「縁」すなわち間接的な原因です。この様々な因と縁が重なって、「果」(結果)となります。この「果」もあてるスポットライトが違えば、違った「果」になります。この紙を信号待ちで否応なしに目に入る掲示板のことばという「果」の場合もあります。ということは縁起における原因と結果は一つ(一因一果)だけでなく無数(多因多果)であり、それを結局自分の都合で選んでいるに過ぎないということです。さまざまな因縁のもよおしで今の私があることは間違いありません。ただ自分が思っているそれが全てかどうかはよくよく考えないといけないのではないでしょうか。

 いい意味にしろ悪い意味にしろ、このことはとても大切だと感じます。お互いさま・おかげさまの世界に引っ張り出してくださる縁起の世界は、ともすれば「どうして自分だけ」と陥りがちな自分の都合中心の生き方しかできない私に、ひらけた世界を感じさせてくれます。おそらくはそのひらけを感じた世界もまだまだ自分の都合の範疇でしかないのかもしれませんが、縁起の持つ方向性や視座を示してくださいます。一年を振り返る中に、忘れたことも忘れられないこともありとあらゆる関係性の中での自分の都合の仕分けによる一つのあり方だったことに目を向けながら、お互いさま・おかげさまのひらけた世界をともどもに味わいつつ、日々を過ごしていきたく存じます。



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