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  • 執筆者の写真信徳寺

2021年2月の掲示板

鬼と福 私の都合で 裁いてる


 私たちはどこまで行っても「私」というものが存在します。例えば、気温0度の状況で感覚器官を通して知覚するわけですが、寒い日と思う人も暖かい日と思う人もいます。出来事を処理分析する「私」がそれぞれに異なるためにそのようなことが起こるのです。ありとあらゆることが「私」の処理分析によるものです。いわゆる「私の都合」というものです。節分で私たちが言う鬼や福もそれぞれ「私にとって」鬼や福というような枕詞がつくのではないでしょうか。このように私の都合で物事の線引きをして生きているのが私たちの現状です。もしかするとその線引きが私たちの苦しみや争いの原因になってしまっているのかもしれません。

 以前のことでしたが、野球の国際試合を見に行ったことがあります。プレミア12という野球の強い国同士が試合をするもので、その決勝戦である日本対韓国戦を見に行きました。私は阪神タイガースファンですが、日本代表には選出されていませんでした。しかしいつもプロ野球で手強い他球団の選手がその日は一緒のチームですので、なんとも心強く、そして観客席を見渡すとそれぞれの応援する球団・選手のユニフォームを着た観客が、球団の垣根を超えて応援していました。私はその光景が線引きを超えた素晴らしいものと思いました、その時は…。

 私の隣におそらくデートでこの試合を見に来たカップルがおられました。彼氏さんはいかにも野球部出身という感じで、彼女さんは全く野球を知らないという雰囲気でした。会話が聞こえてきます。「あの選手かっこいいから、応援する。」と。その選手は韓国チームの選手でした。その声を聞いたときに、私は先ほどまで線引きを超えた応援が素晴らしく思っていたけれども、もしかすると国と国で線引きをしているのではないか、結局自分の都合でものを見ているに過ぎないのだと気づかされました。その彼女さんもイケメンかどうかで線引きをしていますし、どこまで行っても私の都合で生きていることに気づかされたことでした。そして、試合終了後、お互いを讃え合い、敬い合う姿も素晴らしいことだとも気づかされました。

 私たちは私の都合で線引きしないと生きていけないのかもしれません。そのことが争いや苦しみを生む原因であるのも関わらず、そのことを背負って生きていかねばならないのかもしれません。しかし、それを知っているのと知らないのでは違います。相手と違うからこそ相手を敬う、多様性を認め、他者を敬い合うということが都合や線引きをして行かざるを得ない私にとって大切なことではないでしょうか。

 「鬼は外、福は内」と言いたくなる私ですが、鬼や福は私の都合で変わるものであり、それぞれがあるからそれぞれが存在するのです。そのことを心に留めておきながら、私の都合で生きざるを得ない私を生き抜くばかりです。




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