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  • 執筆者の写真信徳寺

2021年3月の掲示板

出会いも 別れも 何度目だろうか 「多生の縁」


 毎年この時期はたくさんの出会いと別れを迎えます。年度を変わる中に生活が変化していき、人間関係も変化していく。そのような出会いと別れを私たちはたくさん経験してきたのではないでしょうか。

 「袖振りあうも多生の縁」ということばがあります。これは、日常の生活の中でちょっと袖が触れ合うようなことも実は過去世(過去に生きたことのあるいのち)からのご縁によるものということです。多生というのは多くの生きてきたいのちということです。仏教ではいのちを生まれ変わり死に変わりしていくという生命観として持っています。そのことを「輪廻」といい、生まれ変わり死に変わりする中に今たまたま人としてのいのちを生きているということを感じていきます。だから、袖を触れ合うような些細なことも実は過去のいのちで何か関係のあった存在だったと受け止めていくのが、「袖振りあうも多生の縁」ということです。

 以前、西本願寺の研修所に勤めていた時のことです。そこでの食事は基本無言にて行います。そのことにこんな指摘がありました。それは食前にいう食事の言葉で「おいしくいただく」とあるが、無言ではなく会話した方がおいしく食事できるのではないかというものでした。確かに仲良くわいわいと会話しながら頂いた方がおいしく感じる事もあるかもしれません。しかしその時、先生が、


「多生の縁ということを思うと、今目の前にある食事はもしかすると自分にご縁のあった存在かもしれません。もしかすると我が子だったかもしれません。少々きつい受け止めですがね…。でもそう受け止めると目の前の食事を話しながらいただくより、無言で味わう方がしっかりといのちのご縁を感じられるのではないでしょうか。それがいのちをおいしくいただくということではないでしょうか。」

とおっしゃいました。この我が子だったかもということは正解だと言い切れませんが、無いとも言い切れません。そこの正否を突き詰めていくのではなく、過去に出会っていたかもしれないという視点の中に深さや広さを感じていくのがこの大切なところになります。生まれ変わり死に変わりを繰り返し、出会いと別れを繰り返してきた中にどの経験もどの存在も実は初めてのご縁、関係でないという視点は豊かさをもたらしてくれます。同じ一つの出来事をその時に感じたミクロな視点から過去と繋がるマクロな視点への転換は、広い世界に連れて行ってくれます。このことが仏教の大事なところです。視野が狭くなりがちな日常に、異なる価値観をもたらしてくれるのです。

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