信徳寺
2022年11月の掲示板
夜空の星の光が届く 人の心にことばが届く
以前、キリンの研究者である郡司芽久さんがインターネットでこのような投稿をされていました。小学生の頃、児童館の職員さんに「星の光が地球に届くのに何年もかかるように、誰かの言葉が君たちの心に届くのに何年もかかることがあるということを覚えておいてね」と言われたことがご自身の姿勢につながっているという内容のものでした。星の光は今届いているように見えても、実際は肉眼で見ると数年から300万年前に発されたものが届いています。途方もない時間と距離を経て私たちに届くように、ことばもそういったことがあるのではないでしょうか。私たちは、縁が整わなければ気づくことができません。すなわち、自分の周りの条件や状況などが揃って、今まで届いていたのに自分の都合を中心にしていて気づかなかったものに気づくということです。郡司さんは、学者としての姿勢として発信する側でも受信する側でも、そのことを大切にしたいというものでした。
さて「非常の言は、常人の耳に入らず」という中国の曇鸞大師のおことばがあります。これは「非常の言」という世間を超えた仏さまのおことばは、世間の理屈で生きている「常人」には届かないというような意味になります。世間の理屈は、長く健康で生きることや財や名誉をなすことや家族円満でいることなどを「しあわせ」として見ていき、それを保とうとする傾向にあります。しかし本当は、私たちのいのちはいつ何時どうなるかわからないいのちであり、いのちを終えていくときは手にした財も名誉も手放し、家族とも別れ独りで終えていかねばなりません。自分の都合を中心にしながら、そのことに気づかずに生きているのが世間の理屈ではないでしょうか。「非常の言」である世間を超えた仏さまのおことばは、全てが無常(常に変化し続けること)であるにも関わらず執着(保ち続けようとする心)をするから苦悩(思い通りにならないこと)が起こると示し、私たちのいのちの有り様についてもそう示してくださいます。世間の理屈で仕上がった「しあわせ」とは真逆で、手放していくことこそ苦悩からの解放だと言うのです。そのことを実践していくことはとても厳しい道になります。
その道を歩めないものに対して立ち上がったのが阿弥陀如来になります。凡情を抱えた私たちをそのまま浄土に生まれさせ、そこで苦悩から解放されたおさとりの身である仏と仕上げてくださいます。「南無阿弥陀仏」というのは「阿弥陀にまかせよ」と私たちを見抜いて救いの道を仕上げてくださった阿弥陀如来の直接のはたらきかけになります。生まれかわり死にかわりを続けた迷いの境界にあったこのいのちにようやく出遇うことのできた救いの道です。今この私のところにようやく届いた仏さまのお心、そのことを伺う今月の掲示板の言葉でした。

