信徳寺
2022年3月の掲示板
私にもある 自是他非のこころ
「自是他非(じぜたひ)」とは、自分が正しくて他者は間違えているという思いのことです。私たちはこういう思いを大なり小なり抱えているのではないでしょうか。そしてこれが大きくなりすぎると戦争のような争いを生み出していくのでしょう。
先日、NHKの放送で「かんさい熱視線“祈りの山”に墜ちたB-29〜戦後76年の慰霊〜」を見ました。第2次大戦中、奈良の大峯山に墜落したB-29の乗組員の足取りを調べているアメリカ人のジャーナリストを特集したものでした。その中で旭区の城北公園横にある千人つか(1945年6月7日に空襲や機銃掃射等でいのちを落とした千数百人の遺体を荼毘にふした場所に建てられた石碑)が取り上げられ、その日に高射砲で被弾したB-29が奈良県の大峯山に墜落したのでした。墜落した乗組員はいのちからがら生存し、地元の人に見つけられます。そこで当地の医師は目の前の苦しんでいる人をほっとけないという思いから、手当をします。やがて憲兵がやってきて捕虜とし、大阪の収容所に送られます。そして報復的に全員処刑され、ゴミ屑同然の扱いで埋葬されたという話でした。最後にこのことを乗組員の遺族に報告するのですが、「受け入れがたいことですが、理解できます」と受け止めて番組は終わって行きました。
この映像を見ながら、当時のことをご門徒に「うちの父ちゃんがお寺の屋根に落ちた焼夷弾を払ったんやで」と聞かされていたのですが、戦争時の資料を見る中で時系列が重なり身近に感じることでした。そこで気づかされたのは、私にはこれらのどの立場にもなりうる可能性があるということでした。戦火に逃げ惑うことも、いのちを奪うことも、いのちを救おうとすることもあり得るということです。親鸞聖人は「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし(『歎異抄』)」という言葉を残しておられます。条件や状況がそろえば、私たちはどんな行動でもおこしてしまう存在であると、自身のことを恥ずかしく情けない存在と嘆かれたお言葉です。「理解できる」とご遺族が言われたように、私たちは理性で「いかなるふるまいもすべし」という事実を受け止めていけるのです。
しかしながら、もう一つの事実は「自是他非」を捨てされないことです。どこまでいっても自分の都合中心でしか生きられないのが私たちです。だからこそ、理性でもって「自是他非」のこころと向き合って行きたく思うことでした。
他者の尊厳を奪う戦争など、絶対にあってはならないのですから…

