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  • 執筆者の写真信徳寺

2023年10月 掲示板のことば

勝った子も 負けた子も 

がんばった子も がんばれなかった子も 

「おかえりなさい」


 運動会の季節になりました。通学路を歩く子どもたちも運動会に向けて練習に励んでいるようです。運動会の当日やそれに向けての日々の練習では、勝ったり、負けたり、精一杯頑張れたり、うまくいかず頑張れなかったり、嬉しい思いや悔しい思いやいろんな感情を抱えて過ごすのでしょう。  

 私は運動が苦手でしたので、この季節は憂鬱でした。個人競技は活躍できず、団体競技はうまくできずに足を引っ張るようなそのような思い出しかありません。運動が得意な子の輝かしい姿を見ながら、憧れたり羨んだり、比べて惨めになったりしていた記憶があります。

 さてこのような思いは子どもの時だけかと言えば、そうではない気がいたします。成長して行くにつれ、さまざまな場面でいろいろな経験をして行く中に、憧れたり羨んだり惨めになったりして、日常や仕事や遊びでさえも時折そのような思いを持つ場面が増えたような気がいたします。そこには、私たちの持っている自己中心性が関わっているのでしょう。自分の都合しか見えていないので、「かくありたい」という思いが現実とのギャップを生み出し、思い通りにならない苦悩を生み出していくのです。そのギャップを受け入れ、前を向いていくことができたらいいのですが、現実の厳しさにその気力も無くなっていくような場合もあるように思います。

 これらに対してどうすればいいのかというと、一つには「かくありたい」という思いを手放すことがあります。そこを手放せば、ギャップは生まれません。しかし難しい。私たちは自己中心性を持っているからです。

 では、どうすればいいか。「かくありたい」という思いの方向性を変えるということです。例えば、仏さまの持つ「慈悲」という心に学び、全てのいのちを平等に愛おしく見ていく心に気付かされる中に、どんな私であろうとも構わないという受け止めをたまわることができるのではないでしょうか。そして、その思いを完璧にはできないけれど、他者に振り向けていくことができるのではないでしょうか。そんな眼差しの中に、再びギャップに打ちのめされようとも生き抜いていける歩みが生まれてくると思うのです。だから、運動会がどんな結果であろうとも「おかえりなさい」と受け止めていける、そんな世界がうれしいと私は思うのです。 

信徳寺住職 小西善憲


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