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  • 執筆者の写真信徳寺

カレンダーのことば 7月 

4月よりご門徒の皆様にお配りしている直枉会カレンダーの

毎月のことばの解説や味わいをお参りの際に配布することにしました。


今月は「亡き人は一大事を問えと無言の催促」です。


ここにある一大事とは、人は生まれたからには必ずいのちを終えていかねばならない、

そして生と死は一枚の紙の裏表のように切っても切り離せないという

私たちのいのちの問題を表しています。

私たちはそのことに対し、

頭ではわかっているけれどどうすることもできない思いを

お互いに抱えているのではないでしょうか。

仏教ではこの苦しみを愛別離苦(愛するものと別れねばならない苦)と表現します。

阿弥陀如来はそのような苦を抱えた私たちに浄土という世界をお作りくださいました。

死んでおしまいではなく、仏として生まれていく世界です。

ですからその世界を「倶会一処」と表現し、また会える世界と受け止めます。


以前、「はじめてのおつかい」という幼い子が一人でおつかいに行く番組を見ていると

納骨堂にお参りに行くというのがありました。

最初、そのご家族の状況の説明がありました。

姉・兄・弟という3兄弟で、納骨堂に納められているのはそのお姉ちゃんでした。

2歳の時に脳腫瘍という病気にかかり、いのちを終えていくことになりました。

その当時のお母さんの日記には、

代わってやりたかったとか、どうしてこんな目にとか、成長した姿が見たかったとか、

丈夫な体に生んでやれなくてごめんなさいとか悲痛な思いが記されていました。


そしてご家族の日課が紹介されていました。

お仏壇の前でお参りをした後、

お姉ちゃんが生まれた時にもらった絵本を読むというものでした。

その絵本は動物が出てきて「こんにちは」「バイバイ」と繰り返し、

最後にまた遊ぼうねと終わる絵本でした。その最後のまた遊ぼうねの部分を、

「またね、お姉ちゃん」とみんなで言って終わる日課でした。


最後に近くのお寺にある納骨堂に一人でお参りに行く映像が流れます。

弟は周りの人の手助けを得ながら何とかお参りに行きます。

その姿を影でお母さんが眺めながら、こんなことをおっしゃられました。

弟は姉の死後、生まれた子どもさんなので、直接の姿は知りません。

しかし弟の姿に姉の姿を重なったそうです。

姿は見えないけれどいつも一緒なんだと、

そのことばの中に先の悲痛な思いへの受け止めが

変わっていかれたようにお見受けいたしました。

抱えていた苦しみがまた会える世界を通して許されていく感覚なのでしょうか。

苦しみを起こした事実は変わりませんが、

また会える世界に触れる中にそれを越えて生きていくことのできる姿を

このテレビ番組に見させていただきました。


仏となってまた会えるということは、

本当に出会うことですよと以前先生に教えていただいたことがございます。

今のまま、また会うのではなくお互い仏となってまた会う出会いは

本当の出会いだというのです。

私たちは毎日一緒にいてもお互いわからないことだらけです。

全てわかりあって出会うのが仏の出会いだそうです。

どんな出会いか少し楽しみな気がします。

そしてその時まで、どんな顔で会おうか頑張ってみようとも思います。

直接声は聞こえませんが、

そのことを教えてくださるのが亡き人なんですよと味わう今月のカレンダーのことばです。

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